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チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回 (後半)
2012年10月09日 (火) | 編集 |
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チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回 「ベラルーシの苦悩」まとめ(前半)からの続き。



ホイニキ地区からの移住者は、大都市を中心に全国各地へと散らばって行った。
ニコライ・サドチェンコさん(ホイニキ地区・ストコボ農場長)夫婦には二人の子供がいた。多くの村の子供達が病気になる中で、移住するかどうか決断しなくてはならなかった。ニコライさんは農場長。日本で言えば村長のような責任ある立場。周囲から移住しないで欲しいと言われたこともあり、夫婦は残ることを決断した。



・ニコライさんの妻、ニーナさん。
 「事故の時は、セリージャは8歳、ナターシャは3歳でした。「私たちは去ります。お好きに」と人々や家畜を投げ捨てるわけにはいかないでしょう」
・ニコライさん「移住するなら、農場一緒にだ。一つの場所にだ」
 ニーナ「あなたが そう望んでた」 ニコライ「人々もそう望んだ」 
 ニーナ「夫はいつも人々のためだと言います。私は車に乗っている時など『このまま出ていきたい』と何度も思いました。でも家族ですから。人はそれぞれですが、私たちの場合は、こうなりました」

家族とともに村に残ることを選んだニコライさん。不安の中で子育てをすることになった。二人の子供達は高校卒業までは村で育ち、現在は都会で暮らしている。

汚染地域を出て移住した人達は、その後、どのようにくらしてきたのか?
チェルノブイリ法に基づき、2004年までに移住した人の数は、11万人に上る。国から住宅の提示を受け、それを承諾すると仕事が斡旋された。



首都ミンスクの郊外に立ち並ぶ高層アパート、様々な村から移り住んだ人達が暮らしている。
A「毎日ここで、過去のことや現在について話しているの」
B「ハチミツは売らないようにと言われ、家畜も蜂も全部処分して移住してきました。移住当初は慣れなくて本当につらかった」
A「私は移住を後悔していない、始めの頃はもちろん帰りたかった。でも今はもう一人で暮らすしか…」



学校の教師をしているガリーナさん。ホイニキ地区に隣接する小さな村からこの団地に移住してきたのは1992年。幼かった娘の健康を考えたためだ。



移住によって被曝の心配は減った。
この証明書があれば優遇措置が受けられる。しかし、周囲の人々の視線は冷たかった。
・ガリーナさん
 「私たちがミンスクに来ると「チェルノブイリ人が来た」と否定的に迎えられました」
 「学校でも子供は「汚染されるから隣に座りたくない」と言われました。ここの人達は(放射線に関する)知識がなくて、私達はとてもつらい思いをしました」



ソビエト連邦崩壊後、ベラルーシでは経済が混乱し、深刻な財政悪化にみまわれる。そうした中、1994年ルカシェンコ大統領が就任。新政権は財政再建を目的に、被曝線量の低い地域で医療費の一部を有料化するなど、支援策の見直しを打ち出す。
この時期、子供達の甲状腺がんをはじめ、様々な病気が増えていた。被災者はさらなる支援を必要としていた。
ガリーナさん達移住者は、ボランティアの補助組織『移住者の会』を立ち上げ、活動を始めた。



移住者の中には、今でも病気や差別に苦しむ人が少なくない。
海外からの支援が、行政との話し合いの窓口となるなど、移住者達の生活をきめ細かく支えている。
今、ルカシェンコ大統領は、汚染度の下がった土地に人を戻し、農地を再生する国家プロジェクトに力を入れている。一定の放射線レベルに下がった土地で、作物の栽培をはじめるよう呼びかけている。

農業が基幹産業のベラルーシ。汚染地帯でも農業生産を続けることで経済を活性化し、雇用を確保することが求められた。



汚染された土を除去する農地の除染は、コストがかかるため行われなかった。その代わりに、できるだけ放射性物質を含まない作物を作ることに力を入れている。その第一歩が、農地の詳細な汚染地図を作ることだ。汚染地域にあるすべての農地で、土壌を採取し放射能を測定する。1辺100mの区画ごとに、定められた方法で、均等に土を採取する。



今、土に含まれる主な放射性物質は、セシウム、ストロンチウム、プルトニウム、アメリシウム。汚染レベルが高い場所は、そもそも農地として使えない。使える農地も汚染レベルによって二種類に分けられる。放射能物質ごとに、土壌汚染の基準値が設定され、食用の作物を作れる農地と作れない農地に分けられた。食用の作物を作れない農地では、収穫物を家畜の餌や工業用原料など、非食用に回している。



ニコライさんの農場の汚染はどの程度なのか?2011年夏、農場を訪ねた。
国から届いた、農地の詳細な汚染地図。4年毎に更新される。これは2007年のもの。
・ニコライさん
 「この地図がなければ、ここでは何も出来ません。ストロンチウムとセシウムを測り、その結果で作業をします」



食用の作物を作れる汚染レベルの青色が、左半分に広がっている。
しかしストロンチウムの地図では、ほとんどが黄色や赤。食用の作物を作れない汚染レベル。このストロンチウムの汚染のために、ニコライさんの農場では食用の作物を作ることができない。現在農場では、工業原料や家畜の飼料となる作物を作っている。

農場に広がる菜の花畑。菜種は絞った油をバイオ燃料や機械油として使い、搾った後の搾りかすを、タンパク質を多く含む家畜の餌として活用している。ここ数年、なたねの作付面積は増え続けている。
もう一つの主力作物はトウモロコシ。放射性物質の吸収が少ないとされている。主に牛の餌として使われている。



ニコライさんは、人間の食べ物にはならない作物であっても、汚染を少しでも減らそうと努力してきた。対策の中心は、放射性物質の吸収を抑制する資材を畑にまくこと。必要な物は全て、国の資金で提供されている。セシウムの汚染レベルが高いところでは、吸収を抑制するためにカリウムが撒かれている。
農地の酸性度にも注意を払う。酸性度が高くなると、放射性物質がより作物に吸収されやすくなるため、石灰を撒いて抑えるている。



この農場のもう一つのは柱は酪農。餌には、畑で採れた牧草と配合飼料を混ぜて与えている。
事故後、牛乳は一時出荷を停止されたが、規模を縮小して生産を続けてきた。餌にする牧草には、まだストロンチウムが含まれている。ストロンチウムは、カルシウムと性質が似ているため、牛乳に移行しやすいと言われている。
搾ったミルクを引用にまわすことは、許されていない。



現在、ニコライさんの農場の牛乳は、全てバターに加工されている。
セシウムやストロンチウムは、油に移行しにくい性質を持っているため、バターにすれば、汚染を大幅に少なくできると言う。出来上がったバターは国内で消費されるほか、海外へも輸出されてきた。

ニコライさんの農場の多くで、食用の作物を作って良い基準の二倍以上のストロンチウムが、まだ残っている。今後も暫くの間、食用の作物は作れる見込みはない。しかしニコライさんは、この農地を守り続けることが大切だと考えている。
「多くの人が去っていったが、私たちはこの土地で生活し、仕事をしたいのです」


事故から26年。住民が居なくなった村は取り壊され、姿を消して行った。
村があった場所に残された墓地。かつての住民は、年に一度の墓参りでここを訪れる。生きているうちは故郷を離れても、死んだ後は故郷に葬られる事を願う人も少なくない。



事故直後に、住民が全村避難したサヴィチ村。
チェルノブイリ原発から30km圏内に位置する村だ。検問所の先にあるのが、事故前に500人が住んでいたサヴィチ村。26年の間に木々は生い茂り、村全体が森に飲み込まれつつあった。かつての村人が戻ってきていた。
「今は16軒あるのよ。一軒に住んでいるのは一人か二人ね」

事故直後に避難を強いられ、一度は無人になったサヴィチ村。
その後、国や行政の許可を得ず、村に戻る人が相次いだ。
現在では、高齢者ばかり20人ほどが暮らしている。
「どこにも行きたくないわ。私には畑もあるし、どこにも行かないわ」



原発事故の時、46歳だったエカテリーナ・チェチコさん。子供たちからの同居の誘いも断り、ここで畑を作って暮らしてきた。
・エカテリーナさん
 「畑の野菜は大丈夫だと言われているわ。畑仕事さえしていれば元気でいられるのよ」

「以前、一度だけ放射線を測りに来てくれたから安心だ」と、エカテリーナさんは言う。
エカテリーナさんはこの家でたった一人、家族の思い出とともに暮らしてきた。壁には、子供や孫たちの写真が飾られていた。



 「孫です。原発事故の日に生まれたのです。チェルノブイリ事故のシンボルのような子です。4月26日に生まれたのです」「7歳で亡くなりました。悪性腫瘍でした」
「私に残された時間は、あと少しです。私が死んで、ここに埋められた後は、どうなっても仕方ありません」



移住した先に馴染めず、1年余りで戻ってきた夫婦。
フョードル・フメリニツキーさんと、妻・ワレンチーナさん。
  フ「よく働いたよ」
  妻「そうね」
  フ「私たちは、40年間ずっと農場で仕事をしてきました」
  妻「いろんな動物を飼っていたのよ。豚に鶏に牛に馬にヤギに羊に」フ「七面鳥もね」
  妻「七面鳥に鴨まで。毎日仕事で休みもなかった」

周りでは狼やイノシシが増えた。丈夫な塀を建て昔ながらの暮らしを守っている。



  フ「測定してもらったので大丈夫な水だ」
  妻「おいしい水ですよ」「とても冷たい氷のよう」
夫婦二人、この家を終の棲家と決め、どこにも行くつもりはない。



冬には氷点下20度にもなるホイニキ地区。



2月。
ニコライさんが農場長を務めるストコボ農場に、新しい汚染地図が届いた。
順調に汚染レベルが下がり続けて来たはずのセシウム。4年前の地図と比較する。
異変が起きていた。
食用に使える基準値以下の青い部分が、新しい地図では基準を超えた緑色に変わっていた。
更に、汚染レベルの高い黄色の区画が増えていた。



汚染の上昇した農地。そこは立ち入り制限区域に隣接している。

・ニコライさん
 「去年、トウモロコシを収穫した後に、牧草を植えたんだ」

去年は畑だった場所。何らかの理由で放射性物質が移動したと考えられる。春には、放射性物質の吸収を抑制するカリウムの量を増やし、もう一度牧草の種を蒔くことにした。

 「バッファローが立っている。彼らはここに住んでいる。あんなに大きな動物が」

野生動物だけが暮らす立ち入り制限区域「ゾーン」。
そのすぐそばで、ニコライさんは大地とともに生きている。

2012年5月。
春を迎えたニコライさんの農場。
新たな試みが始まっていた。

2012年7月。
移住によって20年間放置されてきた農地を、再び耕す取り組み。
汚染の度合いが時間とともに減少し、作付できるようになった農地に牧草の種を蒔く。今後、土壌改良をしながら、トウモロコシや菜種なども植えてゆくつもりだ。

子や孫の時代になり、いつかまたこの農場で採れた作物が、国中の食卓をにぎわす日を、ニコライさんは夢見ている。



 「簡単な事ではないでしょうが、子や孫たちに、綺麗な大地を受け渡さなければなりません」
 「住民のことを思いやる気持ち、他には何もありませんでした」

しかし、ストロンチウムの汚染レベルが依然高いこの農場。29年という半減期を考えれば、ニコライさんが食用の作物の出荷を見届けることが出来る見込みは、ほとんどない。

26年前、ベラルーシの大地に降り注いだ放射性物質。
人々は、膨大な時間と労力を費やして、放射能と戦ってきた。
しかし、何時になったら以前の暮らしを取り戻せるのか?
見通しは、未だ立っていない…。

チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回「ベラルーシの苦悩」(完)




チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第二回「ウクライナは訴える」に続く。





テーマ:NHK
ジャンル:テレビ・ラジオ