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チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回 (前半)
2012年09月25日 (火) | 編集 |
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2012年09月16日放送、NHK ETV特集 チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第1回「ベラルーシの苦悩」の要点や心を動かされた部分をまとめた。かなり長くなったため、前半・後半に分けた。
番組中に出てくる映像は、特殊な資料以外、同じ図の自作(地図など)やモザイク加工するようにした。

NHKの数ある放射能汚染を伝える番組の中から、何故これを選んだのかというと、過去に起こった事故だから。これを否定する事はできないし、これからどんなことが日本に起こってゆくのかという教材になる。日本国内の汚染地域を語ることがタブーとなっている今、ある意味他人事のように語れる外国の話だと切り出しやすい。興味を持たない人に1時間もある放射能汚染番組を見せることは難しいけれど、文字に起こしてまとめてあれば、流し読みくらいはしてもらえるかも知れないという理由もある。





今から26年前、チェルノブイリ原子力発電所事故で被害を受けた「ベラルーシ共和国」。
南にあるウクライナで起きた事故だが、直後に北向に風が吹いたため、国土の1/4が汚染される大きな被害を受けた。



チェルノブイリ原発の北15km~80kmに位置するホイニキ地区。南側およそ1/3は、ゾーンと呼ばれる立ち入り制限区域となっている。
ゾーンの外の汚染地帯では、なたねの栽培など、農業が続けられている。
なたねは土の中の放射性物質がを吸い上げることを期待され、事故後に植えられた。除染効果はあまりなかったが、種から絞った油がバイオ燃料などに有用なため、生産は拡大している。汚染レベルが高い土地では、食用にならない作物が作られている。



ベラルーシでは、汚染地帯からの移住を希望する人達に、様々な支援を行なってきた。国から住居や仕事が提供され14万人が移住した。住み慣れた土地から切り離され、新たな場所で生きることになった人達。故郷に帰れないまま20年以上が経った。

■移住者の店

・中央、青い服のおばあさん
 「私達がどう暮らしているかって?」 「病気になったり 死んだり 大変だよ」
 「私達に必要なのは 健康よ それが全てなの」
 「子どもや孫たちでさえ 病気が多いのに 私達なんてなおさらよ」
 「わが家を 追い出されたのよ 好きで出たわけじゃない」

・左側、緑の服の人のおばあさん
 「日本でも 同じ事故が起きたでしょ」
 「美しい国だったのに どうなったのでしょう 何もできなかったでしょう」

・右側、紫色の服のおばあさん
 「ここは他人ばっかり」 「どこにも行き場はない」
 「ここで我慢するしかないんだ」「ここで我慢するしか無いわ」


『チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回。最も大きな被害を受けたとされるベラルーシで、再生に向けて苦悩する人々の事故から現在までの歩みを描きます』第1回「ベラルーシの苦悩」


ゴメリ州ホイニキ地区。ほぼ全域が汚染地帯にあり、南側1/3はゾーンとなっている。ここには特別な許可がないと入ることが出来ない。かつてここには、20の村があり5,000人が住んでいた。ベラルーシでは、森林の除染はコストが掛かり、生態系を破壊するため行われなかった。



ゾーンの中には放射性物質に汚染されたガレキが持ち込まれ、捨場となっている場所がある。この辺りの空間線量は0.3μSv/h、事故直後と比べると1/100以下に減少している。しかし土壌には、人体に入ると骨に貯まって排出されにくいストロンチウムや、肺がんを引き起こすと言われるプルトニウムが沈着している。放射性物質が集められているゾーンで一番恐れられているのは、森林火災が起き、放射性物質が大気に拡散すること。火事が起きないよう厳しい監視が続けられている(高い鉄塔の上から、毎日双眼鏡で森林を監視している)。



1986年4月26日未明、チェルノブイリ原発で原子炉が暴発し爆発。様々な放射性物質が放出された。
事故直後、ソビエト政府は発電所から2.5kmの町の住人5万人に避難を指示。その後30km圏に拡大された。
住民は3日で帰れると言われ避難先に連れて行かれた。



原発から北に50km、ホイニキ地区にあるニコライ・サドチェンコさん(ホイニキ地区・ストコボ農場長)の農場にも避難者たちが連れてこられた。ニコライさんは政府からの指示を受け、チェルノブイリ15kmからの避難者たちに住む場所と食事を用意することになった。ニコライさんには政府から簡単な放射線対策だけが支持されていた。
・ニコライさん
 「村の人々には 井戸を閉鎖し 窓をシートで覆い 家庭菜園のものは食べないように言いました」

その頃、ソビエト政府は科学者達を極秘に招集し、放射線量の測定を命じていた。
・測定の責任者だったユーリ・イズラエリさん(当時 ソ連 国家水分気象委員会 委員長)
 「8台のヘリコプターと飛行機に、特別な機材を持ち込みました。ストロンチウム90は60km、大変危険なプルトニウムは30kmまで飛散し、ホットスポットが30km圏外にも出来ていました」「一番目立つのがセシウム137で、他にもセシウム134、136があり、それらが放出され、遠いところまで拡散しました」



事故発生2週間後の汚染地図。汚染は30km圏を超えて、ホイニキ地区まで広がっていた。このうち50μSv/hの内側は、事故後一年間の被曝線量が、100ミリシーベルトを超えると計算され、5月22日、このエリアに新たな避難指示が出された。



100ミリシーベルトという避難基準を決めた、レオニード・イリインさん(当時 ソ連 生物物理学研究所 所長)。
イリインさんは、核実験を繰り返し行い、核施設での事故が続いたソビエトで、放射線の人体への影響を長年研究していた。イリインさんは核開発を推進する立場から、社会的影響も考慮しながら被曝線量の限度を決めてきた。

・イリインさん(当時 ソ連 生物物理学研究所 所長)
 「事故直後1年間の住民の被曝限度線量は100ミリシーベルトだと確信しています」「もちろん、私達の長年の経験と文献データの分析に基づいて言えることです」
 「今回日本政府は、被曝限度を20ミリシーベルトという低い数字に定めました。それは大変よいことです。しかし、もし私達が20ミリシーベルトを限度水準にするなら、それは根拠の無い政治的なものでしょう」
 「そうなると旧ソ連のヨーロッパ部分の全ての住民を避難させる必要が出てきます。実際のガン発生の危険性と、考えられないほどの大きな社会的・経済的衝撃とをはかりにかけて、いわゆる実際的なしきい値を決めました」



汚染地図によれば、ニコライさんのストコボ農場は、1時間あたり30~50μSv/hの空間線量だった。福島の原発で言えば、浪江町北西部にできたホットスポットの同じ時期の線量にあたる。しかし、この地図は極秘とされた。ニコライさんの農場では、これまで通り作物を栽培し続けるよう、政府から指示が出されていた。住民に汚染の実態が知らされないまま、政府による放射線対策が始まった。地元の作物を食べるのを禁止されるとともに、外から食料が運ばれてきた。子供達は汚染の少ない場所にある保養所に送られた。しかし9月になると家族の元に返され、日常の生活に戻っていった。



原発事故はホイニキ地区の住民にどんな傷跡を残していったのか?
ニコライさんが中心になって建てた「チェルノブイリの悲劇博物館」。事故を物語る資料が展示されている。
何が起きているのかわからないまま、ただ支持に従うしかなかったニコライさん。ホイニキ地区に避難して来た人達に住宅が建設され、軍隊が駐屯して道路や家の大規模な除染が始まった。ニコライさんは容易ならざる自体が起きていると気付いた。



その頃ベラルーシのか学者達が、ソビエト政府が行う汚染の実態調査に参加していた。
その一人が、ベラルーシ核エネルギー研究所の研究者だったミハイル・マリコさん。
 「私たち研究者は、土壌や食品の分析をしました。結果はすべて機密扱いでした」「汚染地図は1986年6月27日に、ベラルーシ共和国指導部に提出されました。しかし、汚染地図を見たのは指導部の数人で、地図製作に関わった私も見ていません」

事故から3年経っても、ニコライさんの農場では汚染の実態が秘密にされたまま、農産物を作り続けていた。地元でとれた作物を食べることは禁止されていたが、住民の中には家庭菜園で野菜を作って食べる人が少なくなかった。このままで住民の健康は守られるのか?汚染はどの程度なのか?ニコライさんは、調査にやって来た科学者たちから情報を集めた。

・ニコライ・サドチェンコさん(ホイニキ地区・ストコボ農場長)
 「当時、様々な科学者がここに調べに来ました。でも村の担当者には時間がなく、農場長の私が食事や宿泊の世話をして、代わりに調査の結果をもらったのです」
手に入れたデータが示す土壌や農産物の汚染は、想像以上に深刻だった。牛乳に含まれるセシウム137は、事故から3年経っているにもかかわらず、1リットルあたり285ベクレル。事故前の700倍に上がっていた。肉類は400倍。穀物の中には7,000倍の値を示すものもあった。これが3年にわたって放置されたニコライさんの農場の汚染実態だった。

さらにニコライさんは、首都ミンスクの国立衛生学研究所に働きかけ、村の子供達に健康診断を受けさせた。「これを見ると、140の症状が見つかり、そのうち44例が甲状肥大でした」
検査を受けたのは129人。甲状肥大以外にも目の病気が32人。消化器の病気が31人。他にも心臓病、呼吸器疾患など様々な病気がみつかった。
汚染地帯のあちこちで子供達の健康が悪化。ベラルーシの人達の間で、放射線への不安が広がる。



情報の開示を求め、政府を批判する一般市民のデモが繰り返された。当時のソビエトでは異例のこと。
市民の声に動かされたのは、モスクワではなくベラルーシ政府だった。ミンスクで市民との対話集会が開かれた。物理学者のマリコさんも参加した。



この集会で初めて汚染地図が公表された(ソビエツカヤ・ベラルーシ紙 1989年2月9日)。
発表されたのは、ソビエト政府が作成した汚染地図のベラルーシ部分。
人々は、これまで避難の必要がないとされていた地域にも、放射能汚染が広がっていることを、この時初めて知った。

・ミハイル・マリコさん(当時 ベラルーシ核エネルギー研究所・研究者)
 「セシウム137が55万5千ベクレルを超える地域に、10万人以上が住んでいると明かされました」



公表された汚染地図によると、汚染の度合いが高い【赤色の二つのエリア】では、既に避難が終わっているとされた。
【オレンジのエリア】は当時まだ人が住んでおり、汚染のない食品を運ぶなど対策が取られているとされた。ここは年間の被曝線量に換算すると、5ミリシーベルトを超えるとされる地域。
【黄色のエリア】は定期監視地域。住民の健康と食品の安全をチェックしているとされた。ここは年間の被曝線量に換算すると、1ミリシーベルトを超えるとされる。



※上 レオニード・イリインさん。 下 ミハイル・マリコさん。

ベラルーシ科学アカデミー 1989年7月、汚染地帯に住む人々の被曝限度量をめぐる専門家会議が開かれた。
ソビエト政府の立場で、事故一年目に100ミリシーベルト(mSv/年)を基準と決めたイリインさん。二年目は30mSv/年、三年目は25mSv/年を基準値とし、この頃になると生涯で350mSv以内としていた。
これに対しベラルーシの科学者は、年間1mSvを基準とすべきだと主張。対立した。



その根拠となったのは、事故の前年に発表された国際放射線防護委員会(1985年パリ会議声明)の声明だった。
「平常時、一般人の被曝限度は年間1mSv。数年ならば5mSv/年を上限に出来るが、生涯平均被曝量は年間1mSvを超えないことが条件」というもの。

・ミハイル・マリコさん(当時 ベラルーシ核エネルギー研究所・研究者)
 「私たちは 年間1ミリシーベルトを超えると、放射線防護策を取る必要があり、5ミリシーベルトを超えたら、移住する必要があると提案しました。当時から、癌や白血病の増加につながる被曝量に下限値はないと考えられていました」「つまり、放射線による病気が発生しない安全線量などない、という考えです」

・レオニード・イリインさん(当時 ソ連 生物物理学研究所 所長)
 「私達の提案は、共和国の最高会議などから大きな批判を受けました。多くの人は、放射線の知識がないのに危険だという意識だけはあって、主張し始めたのです。1ミリシーベルトは、原発が正常に機能している時の許容被曝線量なのです。なんと馬鹿げたことなのでしょうか」

議論は平行線のまま会議は終わった。当時ベラルーシはソビエト連邦の1共和国に過ぎず、ソビエト政府の圧倒的な力の前にその主張は通らなかった。



公開された汚染地図。ニコライさんの農場は、そのほとんどが年間被曝線量1mSv~5mSvの黄色の地域に含まれていた。住民の間に不安が広がる。ニコライさんは集めた情報を元に、科学アカデミーを通じてベラルーシ政府に、独自の対応を求めるよう要望書を提出した。
科学アカデミーはニコライさんの主張を受け、新たな放射線対策を取るよう政府に提言した(ベラルーシ科学アカデミー文書 1990年9月13日)。

・ニコライさん
 「私の要求は、住民の移住の権利、子供の医療対策、作付品目の変更などでした」



汚染対策を求める声はベラルーシ全土に広がった。首都ミンスクを始め、全国各地でデモやストライキが開かれた。ペレストロイカ以降の民主化の波がこの動きを後押しした。独立への機運が高まる中、ベラルーシで独自の放射能対策を定める法律が制定された(1991年2月22日 チェルノブイリ原発事故被災者に対する社会的保護について)。
いわゆるチェルノブイリ法。年間5mSvを超える地域では、国が住居と仕事を用意して、汚染の少ない土地へ住民を移住させる。年間1mSv~5mSvの地域でも、住民が希望すれば住居と仕事の提供を受けることが出来る「移住の権利」が認められた。現在の日本では認められていない考え方。



当時のベラルーシ閣僚会議副首相で、被災者支援の指揮を取った、チェルノブイリ委員会初代委員長のイワン・ケニックさん。
 「一番大事なことは、汚染地域に済む200万人のベラルーシ国民に希望を与えることでした。住民のニーズに応えることだったのです」

チェルノブイリ法では、移住にかかる費用はすべて国から支給されることになっている。それだけでなく、税金の減免、医療費の免除、子供の保育などの優遇措置が定められた。汚染地域に残った人達にも同様の権利が保証された。さらに年間1mSv以下でも、一定以上の土壌汚染があれば、国が医療費の一分を負担する。
・イワン・ケニックさん
 「ベラルーシ共和国予算の18%~20%がチェルノブイリ法の実施に当てられました。とても重い負担でした。どんな国でもそうでしょう」

チェルノブイリ法により、ニコライさんの農場のほとんどは、移住の権利を持つ地域となった。見え無い放射能汚染の中で暮らし続けるか、生まれ育った土地を離れるか、悩んだ末、住民の4割が移住を選択した。ニコライさんは子供達のいる家庭をリストアップし、優先的に移住先を斡旋して行った。さらに移住先のリストも作った。村を去っていった人のことを、決して忘れたくないとの思いから。

チェルノブイリ原発事故 汚染地帯からの報告 第一回 まとめ(後半)へ続く。
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Wikipedia - チェルノブイリ原子力発電所事故
Wikipedia - シーベルト

まとめやってみたら大変だった。スピードが速くて同じ人のコメントを最低7回くらいは戻って見なおしてるから、1時間番組の前半30分しか出来てないのに、7時間もかかった。まだ第一回の後半部分とシリーズ第二回の分も残ってる。恐ろしい…。数値や単位などは間違えられないから、念入りに何度も確認してるし、デリケートな内容なので、言い回しのニュアンスを受け取り間違うと、意味が変わってくるから結構緊張する。画像の大きさ調整やモザイク処理なども大変だった。残りもがんばろう。



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